「和歌の浦」歴史紹介

 

神亀元年(724年)のことでした。この時から「和歌の浦」は歴史に残っています。

 行幸した聖武天皇が、和歌の浦の景観に感動し荒穢させることのないようにと詔を発しました。また、この際に光が差す浜の様子を見て「明光浜」(あかのうら)と名付けます。


 

平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなりました。この頃、前述の衣通姫という美しい姫がおりました。容姿が良く、その美しさは衣を透して輝いたといわれます。允恭天皇の皇后の妹とも、允恭天皇の皇女とも言われる姫でした。この衣通姫は歌人としてもすぐれ、和歌の浦にある「玉津神社」に住む女神と一緒になって、和歌の上達を願う神様となりました。

 

平安時代から今に至るまで、多くの優れた歌人たちが上達を願って衣通姫のもと(玉津神社)に参拝に来ております。


百人一首に『君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ』(大好きなあなたのために、春の野原に出て若菜を摘んでまいりました。ほら、衣の袖に、雪が降っているでしょう?)を詠んだ光考天皇も和歌の浦にゆかりがあります。和歌の道に秀でた絶世の美女衣通姫(そとおりひめ)が、光孝天皇の夢枕に現れ、和歌の浦の歌を詠まれたという伝説を受けて「明光浜」(あかのうら)、が「和歌の浦」(わかのうら)という地名に変化しました。平安時代には「和歌の浦」は和歌の盛んな土地で、有名な歌人の多くが「和歌の浦」にちなむ歌を残しています。詳細は「和歌の浦にちなむ歌たち」をご覧下さい。


 

鎌倉時代、室町時代には平和を希う人、歌の上達を願う人が訪れる場所となりました。そして戦国時代。1585年(天正13)、羽柴秀吉の命を受けた羽柴秀長による和歌山城築城開始します。古代からの名勝地「和歌浦」に対して、 秀吉が「和歌山」と命名したことで、「和歌山県」という名前が現代に続いております。


 

江戸時代になると松尾芭蕉を含む俳人もこの地を訪れるようになります。また、信長も落とすことが出来なかった雑賀孫一と根来衆を討伐した後、紀州地方は徳川御三家の城したとなり、更なる発展を遂げます。

 不老橋や番所庭園を始めとして、多くの重要文化財が江戸時代の御三家時代に残されました。


 

明治になると「和歌の浦」にちなんで「紀州藩」から「和歌山県」に改名。「和歌山県」の名の由来になった「和歌の浦」は「和歌山県和歌山市和歌浦」となります。与謝野晶子をはじめとした歌人は、歌の上達を願って和歌の浦を訪れ続けます。

 

その後、高度経済成長期などを経て、2015年、「和歌の浦短歌賞」が創設されることになりました。

 


writing:徳原 新月