渡ったものは長生きすると云われる和歌の浦随一の歴史建築。
徳川治宝が嘉永4年(1851)に建造したアーチ型の石橋で、和歌の浦随一の名所です。紀州東照宮の祭礼・和歌祭(俳句の季語でもあります)の際に、徳川家や東照宮関係の人々が御旅所に向かうために通行した「お成り道」に架けられた由緒正しい橋です。江戸時代のアーチ型石橋は九州地方以外では大変珍しく、雲を文様化した勾欄のレリーフが印象的で多くの地域から沢山の人がこの不老橋を訪ねてきたと言います。
和歌山の文化事業先端も担う文武両道の競技施設。
2万人弱を収容できる陸上競技場・野球場のある紀三井寺公園。プロの公式戦も行われています。また、サッカー・ラグビー・テニス場と、屋内ジムハウスやトレーニングジムも充実。スポーツ以外にも会議室等で行われる催しでは文化事業が行われ文武共に和歌山の先端を担っています。2015年の国体開閉会式会場です。
狩野派の襖絵まである重要文化財です。
煩悩を表す108段の階段「侍坂」を登りきると朱塗り極彩色の楼門が迎えてくれます。正面に位置する社殿は桃山時代の遺風をうけた江戸初期の代表的な建造物です。左甚五郎の彫刻のなかでも珍しいといわれている「緋鯉・真鯉」や、狩野探幽作といわれる豪華な襖絵を拝観できます。巫女さんの案内つきがとても評判です。
平坦で海に長く突き出た独特の地形をしている庭園は「番所の鼻」といわれています。黒船の見張り番所の跡で、文久3年(1863)に軍艦奉行並だった勝海舟もここを訪れています。万葉時代神亀元年(724)に藤原卿が「雑賀の浦」の漁火を見て詠まれたといわれている歌はあまりにも有名です。
東照宮と天満神社のふもとにある池、御手洗池。この 池をぐるりと囲むように、美しい遊歩道が作られています。桜の時期には立ち止まって写真を撮る家族連れでにぎわいます。ここから階段を上ると、和歌の浦東照宮に着きます。
歌を詠むために拝観する人が後を絶たない名遺跡
絶世の美女であり、和歌の神様でもある女神が暮らしています。赤い鳥居の美しさは女神の頬紅やまとう衣にたとえられます。 伝説の美女「衣通姫(ころもも透けて光るように美しい姫の意)」と同一視された神様は、今日も静かにおわします。
塩竃神社のすぐ隣の小高い岩山の据には、山部赤人の有名な歌碑が建てられています。「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして鶴鳴き渡る」他にも多くの歌を詠んでいますが、その中でも和歌の浦を代表する有名な一首です。
天保4年(1833)に建立された芭蕉の句碑は玉津島神社を出てすぐ、三断橋の真向かいにあります。芭蕉が貞享5年(1688)に和歌の浦を訪ねた折の作で、句碑には「行春を わかの浦にて 追付たり」と書かれているように読めます。
writting:徳原 新月